the TOWER of IVORY

あなたたちの耳が長いのは、神の代わりに世界の声を聞くため

「やっていき」のシスターフッド:高島鈴「景観を穿つ」を読む

 

1.

www.elabo-mag.com

 

 

皇居の気持ち悪さ、というTwitterでの惹句からして魅惑的な、高島鈴@mjqag)さんの新しい記事(上記リンク)を読んだ。気持ち悪さを引き起こすさまざまな暴力の象徴であるはずの皇居での、拍子抜けするほどなにもなかった経験。その景観のなかには、やたらにこにこ顔の警備員や互いに写真を撮り合う老いた男女、楽しいピクニックにやってきたような人びとの集る、奇妙な和やかさがあった。

 

私たちは景観というものを身体的に内面化していて、国家や行政機構はそれらに埋め込まれた装置を通してあたかもそれが当然であるかのように暴力を行使する。アンジェラ・デイヴィスの米国での産獄複合体とその廃止運動に関する仕事を引きながら、こうした暴力機構を形成している景観を疑う必要性を指摘するとともに、高島さんはその一部分たる自分には景観の書き換えが可能であるという(ex. デモという場における民衆)。景観のなかで、私たちは無力を感じているときですら抵抗の主体であること、それゆえ革命を信じて生きよという檄文をもって鼓舞することで文章は終わる。

 

 

2. 

そもそも、私が高島さんの檄文を受け取るのはこれが初めてではない。たとえば『文藝』2020年秋号のシスターフッド特集では、「蜂起せよ、<姉妹>たち シスターフッドアジテーション」でその先頭を切って家父長制社会に対する闘争を煽動する(※1)。冒頭において、高島さんはやはり強い呼びかけのレトリックに拠って、革命のスタイルとその道行きにある自分を想像することを促す。

 

この文章では、ベル・フックスの論考に基づいて利害と信念による連帯を志向し、鉤括弧つきの「シスター」を巻き込んでいくすべとしてのシスターフッドが論じられるが、さらに特徴的な主張として、シスターフッド自体をむしろ純粋な「戦略」として捉えなおし、寄り合っては散る意図的な連帯の繰り返しを奨めているという点がある。

 

アナール学派の宗教史家、ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』では、権力的秩序に対する民衆的実践の知のあり方を、「戦略」に対置する「戦術」としてさまざまな事例に適用して検討している(※2)。セルトーのいう「戦略」は一定の固有の領域を前提とし、決まった目標(標的)に対して合理的に作戦を立てて取り組んでいくものという捉え方がなされている。

 

他方、「戦術」は特定の場所には依存せず(できず)、それゆえ他者との境界線があいまいなまま、機をみてその場を乗っ取るようなやり方を示している。「戦術」としての弱者の日常的実践には、ほかにたくらみ・術策・技芸・密漁…といった魅力的で示唆に富むレトリックが充てられる。異質(エトランジェ)で周縁的な存在、固有な環境を持たずいつでも他者の領域に存在するしかすべをもたない弱者は、「戦略」ではなく「戦術」を用いてなんとか「やっていく」しかない。

他者の占有する場を「借家に住むように」密漁してまわり、「つかの間の舞踏をおどる」。フックスや高島さんのシスターフッドの実践を俎上に載せる場合、それはセルトーの分類にならえばむしろ後者の「戦術」に近い感覚がある。

 

こうして照らし合わせた際に用語上の齟齬はあるものの、高島さんのアジテーションは周縁的な場所にあって下を向いて過ごしている私たちを蜂起へ駆り立てるような雄弁な語りであるだけでなく、生き延びの「日常的実践」=「やっていき」の技芸のすすめとして、ある種の託宣、オラクルとして心に入り込んでくるようなものでもあるのだろう。そういう「やっていき」かたをしてもいいんだ!と、目を見開くような。

 

 

3.

しかし、高島さん自身は『ヒップホップ・アナムネーシス』への寄稿「あなたは私に耳を貸すべきではない」において、自身の強い語り口について危うさを表明してもいる(※3)。外部者として見つめるしかないホモソーシャルな場への憧憬、男性性を纏った語りの、攻撃性と前へ突き進むようなパワー(=暴力性)を亢進させる力強さへの嫉妬…。特に高島さんはヒップホップ「村」と関わる経験のうちにその葛藤を見出す。

 

4月27日の高島さんが登壇したDOMMUNEのイベント(『アンジェラ・デイヴィスの教え〜自由とはたゆみなき闘い』に教わったこと)では、(そもそもの番組放送の経緯がそうした問題を孕んだものであったにもかかわらず or であるがゆえに?)発話の場におけるジェンダー的偏りが業界のマターとして完全に露呈する形になってしまっていた。番組中/番組後の男性当事者の対応も問題の所在を取り違えたままであり、適切ではなかった。ホモソーシャルなあり方を内省しようとしない頑なさ、あるいはこうした場を醸成している構造の硬直性に直面したとき、私たちにできることはあるのだろうか(※4)。

 

高島さんのホモソーシャルな場に対する愛憎の表明に、個人的にはかなり共鳴するものがある。大学~大学院時代、ディスクガイドをいくつも買っては必死にクラシック・ヒップホップをいわば後追いの形で「勉強」したこと。対人オンラインゲームで部活動的なコミュニティを形成するのに何年も熱を上げたこと。現在に至るまで、いかなるコミュニティにおいても居場所を見出せずにいること、といった経験が思い出されるからだ。

 

 そうして3年ほど前に辿り着いたのがKPOPの世界だった。KPOPというメディアを通して触れるジェンダー表象を通して、これまで自明で動かしがたく恒常的なものと思っていた「景観」が、実はぜんぜんそんなことはないのだと初めて気づかされた。二元的な世界の間に自分がいるのではなく、そこにはただ無数の差異があるだけだった。

人気コンポーザー集団MonoTreeのファン・ヒョンが「(呼びかけには)heやsheじゃなく그(that)や너(you)を使うようにしている」と語るように、作り手もまたクィア的な読み方がなされることをある程度は意識してプロデュースを行っているのである(※5)。

 

 

4.

 

KPOPにおける価値転覆の可能性は、社会的・文化的主題を扱った表象だけではなく楽曲の様式にも探すことができる。例えば、前回の記事(下記リンク)で取り上げたウィクリの"After School"には、衣装やダンスのコレオグラフィー、トラップビートを組み込んだトラックに至るまで、ヒップホップ的な意匠が多々散りばめられている。

 

towerofivory.hatenablog.com

 

ポップな曲調や寸劇調の振りつけ、相対的なラップパートの少なさや十分とはいえないラップスキル等から、この楽曲の特徴を「ヒップホップ"的"ではない」とすることは簡単だ。ブーンバップ爺ならそう言う。爺の基準では「リアルじゃない、ホンモノ以外のヒップホップはフェイク」なのだから(※6)。

しかし私はその爺に対して、上述した要素を無視して「ヒップホップではない」と断言することはできないのではないか、と言う。そして高島さんの論考を読んだ後なら、こう付け加えることができる。何よりプレイヤーとしてのウィクリは"After School"という楽曲の実践を通して、「戦略」的にヒップホップ的価値観の転覆に携わっている。ミソジニーが横行するホモソーシャルなヒップホップの固有な場を横道から乗っ取り、密漁し、そして書き換えるのだ、と。

4月にTiktokでバイラルヒットし、世界中でティーンの"After School Challange"動画を産みつづけているウィクリは、もしかすると既に布置の裁ちなおしを成功させているといえるかもしれない。

 

 

チョ・ナムジュの短編集『彼女の名前は』の中の一編に、同性のアイドルに「テレビ番組でエギョ(愛嬌)ポーズをしないで!」とお願いしに行く、ジュギョンという女性ファンの物語が入っている(※7)。現実に、アイドルを消費する永遠機関に取り込まれたファンダムの多くは、KPOP産業の搾取的な構造自体の批判には鈍重であるか無関心だ。この装置の中でアイドルにエギョしないでと叫ぶことは、ジュギョンなりの社会の横切り方であり、硬直した景観を前にして踏みとどまる勇気あるやり方だ。

 

KPOP産業の構造にもファンダムによる依然として男女二元的な表象消費のあり方にも嫌気が差していながら、私は価値を転覆するメディアとしてのKPOPに期待することをやめられないでいる。それならば、とり乱しながらも文章を書き続けることで、エトランジェとして自覚的に景観の攪乱に携わっていくしかない。私はいまやシスターとして高島さんの檄文に応じたのだから、「やっていき」の技芸に1つのバリエーションを付け加えることができるはずだ。

 

 

※1 高島鈴、「蜂起せよ、<姉妹>たち シスターフッドアジテーション」、『文藝』2020年秋号、pp. 58-64.

※2 ミシェル・ド・セルトー、『日常的実践のポイエティーク』、ちくま学芸文庫、2021年、pp.32-37、126-131.

※3 高島鈴、「あなたは私に耳を貸すべきでない」、『ヒップホップ・アナムネーシス ラップ・ミュージックの救済』、新教出版社、2021年、pp. 56-65.

※4 興味深いことに前掲書で部分引用されている瀬戸夏子「死ね、オフィーリア、死ね」は、2017年に総合誌角川『短歌』の時評で3ヶ月にまたがって連載された。歌人界隈では比較的大きなイシューとなったが、(主に男性歌人による)批判の多くは総合誌の時評という場における事例引用の適切さ・公正さといった部分に焦点を当てたものであり、歌壇の男性中心主義的なあり方とを検討することから目を逸らした反応だったといわざるを得ない。DOMMUNEでの高島さんに対する男性当事者の対応にもこの件と類似した構造を見ることはできないだろうか。

※5 田中絵里菜、「K-POPはなぜ世界を熱くするのか」、朝日出版社、2021年、pp. 223.

※6 "Zoom - valknee, 田島ハルコ, なみちえ, ASOBOiSM, Marukido, あっこゴリラ" valkneeさんのヴァースから。本人の説明?ツイートも参照。この文章ではvalkneeさんの定義からは離れてしまうが、爺をプレイヤー/非プレイヤー、老若男女問わず「リアルなヒップホップなるものが存在し、その枠に当てはまらないものはフェイクでダサい」という考えを内面化しているヒップホップ・ヘッズを指したい。

※7 チョ・ナムジュ、『彼女の名前は』、小山内園子・すんみ訳、筑摩書房、2020年、pp. 26-35.