the TOWER of IVORY

あなたたちの耳が長いのは、神の代わりに世界の声を聞くため

「自由を歌い、瞬間に接続する方法」WeeeklyのAfter Schoolを鑑賞する

 

はじめに:Beautifulは2度唱えられる 

 

2021年のKPOPは、最初の四半期を終えてますます魅力的なリリースが続いています。楽曲のプロダクションの面はもちろんのこと、各アーティストがそのチームなり個人なり固有の魅力を存分に発揮できているような。また、音楽番組やコレオグラフィーのスペシャルクリップでのパフォーマンスが、楽曲をより一層それ自体たらしめるような。そんなリリースが次から次へと出てくるのです。

 

それはたとえば、生に突き動かされるまま張り上げるこの叫び全てはすなわち芸術、そうして生きている私とあなたはそれぞれにBeautifulでBeautifulなんだ、と歌ったONFの"Beautiful Beautiful"のような楽曲に強く感じました。

 

 


(MV)온앤오프 (ONF)_Beautiful Beautiful

 

 

ONF楽曲の制作を全面的に担っている制作チームMonoTreeG-Highは、チームのYoutubeチャンネルの動画 で"Beautiful Beautiful"について「自分のなかに入っていく感じ(の曲)」と話すのですが、言葉を継いだファンヒョンはむしろ他者との相互作用性を持ち出して「生自体、私たちが表現すること自体が芸術になりえるのではないか」「私は美しいと話しつづけることがすなわち、あなたも美しい、私たちは皆美しい存在だ(と認めていくことになるのではないか)」と話しています。

ONFはこのファンヒョンの意図をパフォーマンスによって拡張し、ファンダムに語りかけるような志向性・まなざしをこの曲に与え、この「너와 나의 이야기(あなたと私の物語)」を通した生の歓喜の相互作用を引き出しています。

 

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予測できないもの、偶然性に委ねた舞台

 

 

3月17日にリリースされたWeeeklyのカムバック曲"After School"も、多面的な魅力に溢れた楽曲の1つです。この曲が収録されたEP『We Play』は昨年6月30日発表のデビューEP『We Are』に始まる「We」シリーズの3作目に当たり、おおまかには学園生活を舞台とした7人のドタバタ活劇、という趣で統一されています。

 

さて"After School"について語る前に、これらの「We」シリーズ活動曲のステージに見られる共通項に触れないわけにはいきません。いずれの楽曲においても、ただコレオグラフィーに則り踊るのではなく、さまざまな道具を使用して舞台を展開しているのです。

デビュー曲”Tag Me(@Me)”では教室で机に寝そべってそれを大きく傾けながら気だるさを表現したり、続く”Zig Zag”では7人がキューブをころころ転がしたりくるくる回したりして、その姿は日々あちこちに飛んでいってとてもコントロールすることの出来ない自身の情動をもてあましているかのようでした。そして今回の"After School"ではビビッドな色をしたキャスターつきの椅子に加えて、歌詞にも登場して曲のイメージを方向付けているスケートボードを登場させています。

 

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2020年10月18日、SBS人気歌謡での"Zig Zag"ステージ

 

 

しかしこのように道具を、しかも比較的質量が大きなものを扱うすることは、舞台に偶然性の要素を多分に持ち込むことにもなるでしょう。大きなキューブをくるくる回転させることと手元が狂ってあらぬ方向へ転がしてやってしまうことは隣りあわせだろうし、ましてや、人が急いで座った可動式の椅子をべつの何人かが押すというように、それに何人かの人間が関わるとなればなおさら、動作のタイミングと動線は毎回違うものになるはずです。

 

ここで、KPOPの世界的な人気の秘密を紐解く際にキーワードとしてしばしば挙げられる、カル群舞と呼ばれるスタイルを思い起こしてみます。その特徴は端的に「一糸乱れぬ整然さ」として説明でき、例えば、たまたまKPOPアーティストのパフォーマンス動画を再生した人が、ユニゾンを印象的に取り入れたコレオグラフィーやそのフォーメーションの美しさに心を打たれ、この世界にはまり込んでいく…というのは、さして想像に難くないシチュエーションです。

そうした魅力の反面、チームとして正確で精緻を極めたパフォーマンスを構築していくには完璧主義的な神経質さが良かれ悪しかれ付きまとうことにもなり、ときとして鑑賞する側としても、高度に統制されたパフォーマンスに満ち満ちているトーンのあまりの高さと向き合うことに、若干寄る辺のなさを覚えてしまうこともあります。緻密な体系や圧倒的に整然としているさまの美の裏返しとして、合理化の過程でそこから逸れた異質なもの=予測できないものを排除する選択が採られているだろうこと、そこにあり得たかもしれないゆらぎの可能性を思わずにはいられません。

 

 

それを踏まえて、再びWeeeklyに話を戻します。”Tag Me(@Me)”のステージを見直していて、道具の使用以外にもう一点、はっとした部分があります。

以下はデビュー3日後、7月3日「Music Bank」出演時の定点カメラの映像です。再生可能であれば冒頭約10秒間、左から3番目で机に座っているジユンの動きに注目してください。

 

 


[K-Choreo 6K] 위클리 직캠 'Tag Me (@Me)' (Weeekly Choreography) l @MusicBank 200703

 

イントロ前から机にひじを突いてうつらうつら、なんと曲のAメロに入ってもまだ船を漕いでいます。ワンエイトで数えて2カウント目、한번 뜨면…の면あたりで騒がしく歌い始めたメンバーの声に打たれたように飛び起きるジユン(↓画像1枚目)。면あたり、とは言ったものの、その起点とリズムを関連付けることはかなり難しいです。顎をすべらせる、手を離す、半眼のまま両足を地面について立ち上がり動作に入る…この時点ですでにワンエイトの3カウント目に入っており、ジユンは完全に拍から自由に一連の動きを見せています。

 

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試しに別の日の番組出演を見てみると、1拍目にあわせてハッと眼を覚ます回もあれば、立ち上がった後くるっと1回転して髪を掻き分ける回もあるし、なんならイントロが始まる前から既に目が覚めていてドヤっている回(↑画像2枚目)もある。また、その次のワンエイトの振りつけも日によってぜんぜん違うのです。要するにツーエイト=4小節分の裁量をおおむね委ねられていて、立ち回りはその日のジユン次第ということになります。

ちなみに他の6人はその間、寸劇風の場面でも基本的には拍にあわせたコレオグラフィーをとっています。ということはつまり寸劇だろうと大枠では再現性の高いものになる。ここにリズムから自由に立ち回るジユンが加わることで、Weeeklyは予測できないもの=偶然性の要素を強く帯びたパフォーマンスで、この世に姿を現すことになりました。

 

 

2つのキーワード、「自由」と瞬間」

 

 それではここからようやく、"After School"の話になります。

 


[MPD직캠] 위클리 직캠 4K 'After School' (Weeekly FanCam) | @MCOUNTDOWN_2021.3.18

 

 

先述したように道具を使うという点では「We」シリーズを通して一貫していますが、楽曲の面ではBPM160前後のソリッドなロックを基調としていた前2作と比べると、バブルガム・ポップ的な快活な雰囲気を残しつつもR&Bとトラップビートの要素を交えていて、基本的にはハーフテンポで乗れるレイドバックした曲調となっています(ちなみにコーラスのメロディーになんとなく聴き覚えがあるなと思ったら、NCT127が音源コラボしたことのあるAva Maxの楽曲、"So am I"(2019)のメロディーとそれなりの程度似ています)。

一聴して大興奮、というわけではなかったのですが、カムバック後最初の音楽番組出演(3月18日のエムカウントダウン)のイントロ込みバージョンを観てから、毎日何十回もステージ動画を視聴するようになってしまいました。

 

個々の特徴ある歌唱法、それらが合わさるリフレインでのハーモニー、イントロではメインダンサーであるマンデーのクールネスを大きな軸に展開していたものの曲に入ると有機的にフォーメーションを替えながら決して主役を絞らせないパフォーマンス、そしていつものように安全なスニーカー&パンツスタイル(少なくとも未成年者が所属するグループでは今後これがスタンダードになってほしい)…と、好きなところを挙げていくときりがありません。なぜこんなに良いんだろうか、とひとまず歌詞を読んでいくと、「自由」と「瞬間」という2つのキーワードに行き当たります。

 

 

지금 이 순간은 돌아오지 않아

今この瞬間は戻ってはこない


여기 눈부시게 반짝이는 걸

ここに眩しく煌めいてるよ

 
모두 담았어 전부 다 찍었어

なにもかもこめて 全部録った


앨범 가득한 Video

アルバムからあふれるほどのビデオ

 

 

韓国の学生は小学生の時点から、日本の学生と比べてはるかに長い時間をハグォン(学習塾)通いに費やすようです。小学生なら他に金銭的負担の軽い放課後授業に行ったり、中高生ならそもそも授業が終わると塾以前に夜まで自律学習がある。WEBドラマ「A-TEEN」では、たびたび勉強を放棄してPCバン(韓国のネットカフェのような所)へ遊びに行く登場人物がいましたが、そのように吹っ切れてしまわないかぎり、日本人が考えるような放課後なんてあるのだろうか?

それでも、なんとかお互いのスケジュールをぬって作った大事なタイミング。時計の針がスローモーションな午後の授業を終え、暗くなるまでの間ともに過ごした、心から「自由」な気分、と言える時間。そして、もう戻ってこない唯一一回のこの「瞬間」すべてを、ずっと憶えていられるように…。録り忘れないよう、ジハンが最後のサビの後で念押ししてくれているくらいです(「Record the Video 今この瞬間を!」)。

 

(蛇足ですが、今回歌詞を手がけているのは著名な作詞家ソ・ジウムと昨年大ヒットしたOH MY GIRLの"DOLPHIN"を手がけたソ・ジョンアの姉妹コンビで、血縁関係については今年に入ってこの記事でソ・ジウムが明らかにしています。)

 

 

自由 자유 を歌い上げる方法

 

韓国語で自由자유 と書き、カナで表記するならチャユ、音声記号で表記すると/ʨaju/となります。

ところで、言語学、音声学の研究領域においては音象徴という概念があります。それぞれの音声が、ある特定の意味と結びつくイメージ…たとえば、濁点のついた擬音語は語感が重そうだったり汚そうだったりする、というような現象をさします。音象徴には言語音を発する時にどのように発音するか、また周波数に関連して変化、直感的に理解しやすいのは前者です。たとえば、子音の[k]で始まるカン/kaN/という語。[k]は舌のうしろの方を、口腔上部の軟口蓋と接触させ、空気の通りみちを閉鎖したあとすぐ解放することで音が出ます。こうした発音の仕方から、[k]ないし[kaN]は硬い表面を叩くようなイメージと結びつきます(※1)。

 

母音に関しても発音する際の舌の位置や唇の丸め方によって分類できますが、音象徴の印象も同様に発音の仕方と関わってきます。たとえば「あ」/a/は、口を縦に大きく開き下を奥に引いて発音するので低舌/後舌母音です。「い」/i/は口を横に引き、発音する際には舌が上がっているので高舌/前舌母音と分類できます(※2)。母音の音象徴のイメージを掴みやすそうな例として、ここで日本語の楽曲を持ち出してみます。

 

 

www.youtube.com

 

2013年に発表された、SSWのあだち麗三郎さんによる"ベルリンブルー"という曲です。この曲のサビ(1分38秒当たり~)に「あからさまなパノラマ」という、「ノ」以外は全て/a/を母音とするモーラで構成されたラインがあります。スティールパンやトランペット、控えめでリズミカルなピアノリフなどの心躍るような音楽に囲まれながらこれを口ずさんでみると、ぱっと目の前にひらけた空間があらわれるような、その空間に躍り出て、くるくると回ってしまいたくなるような。あからさまなパノラマ、という歌詞は勿論この楽曲の感情価を表している一要素にすぎないのですが、そのポジティブなエネルギーを身体感覚的に味わえる格好の箇所です。

 

 このように、とりわけ/a/に向かって終わっていくフレーズやライムの繰り返しには開放感を伴う響きが生じるであろう、ということはイメージしやすい。そこで자유、チャユに戻ると、なんと母音は/a/から/u/に向かって狭まってしまいます。思い通りには行かないものです。

"After School"という楽曲の性質はいうなれば光属性というか、明暗でいえば明、陰陽でいえば陽、まず間違いなくポジティブな情動を喚起する感情価がありそうだということは、ほとんどの聴き手が直観的に判断するでしょう。そうすると、両手を大きく広げて「あ~~~~~」と声を出したくなるような開放感とはまた別のしかたで、私たちはこの曲の光属性のエネルギーを感じとっているのではないか。

 

ただ、歌詞のテキストのみを追うのでは、舞台を視聴することの美的な体験を掘り下げていくことは難しそうです。歌唱それ自体やダンス、それらに伴う身体表現の視聴を通じて、より内的に迫ってくる徴候を探ってみると、最後のサビの後に来て大団円へと続く"Singing that~♪"のリフレイン部分、それからその直前部分での"I'm so good with you~♪"という、一続きのパートに突き当たります。

 

曲の順番としては、まず「I'm so good with you~♪」の斉唱が先に来ます。最初の4カウントは横のボディウェーブをしながらフォーメーションを替え、 続く5カウント目で助走をつけるように右脚を大きく外へ蹴り出し、走る時のように腕を振りはじめる。この時点ではまだ「溜め」が効いているのですが、その後8カウントに向けて腕はさらに反復的にサイクルし、それに合わせてぐっと踏み込んだ足をなんども蹴り上げることで、身体は速度を増して(本人達から見て)左肩上がりのベクトルを示していきます。この直前の振り付けにはスケートボードを前に進めるための基礎技術であるプッシュのような動作があり、歌詞とも連動している(「私たち、スケートボードの上/踊るみたく足を踏み鳴らして」)ので、素直に受け取るのなら今にも飛んでいきそうなくらいにスケードボードを駆る速度を上げ、だいぶ先のほうから「ほら、ついてきて!」と声を張り上げている、という風にも解釈できます。

 

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ひとまず先に進みましょう。サビ後に続く"Singing that~♪"のリフレインは3回、次いで"Singing that cool, Singing that cool"が2回繰り返されます。その間、末っ子のゾアが舞台の後方からスケートボードに乗って颯爽と登場し、他のメンバーがラフに踊っている手前を悠々と滑って半円を描いていきます。これらの2つのシーンの歌唱に共通しているのは、いずれも"I'm so good with you~♪"、"Singing that~♪"、と語尾の2拍ないし3拍分、メロディーを歌い上げている点です。上昇と下降という違いはあるものの、これらの歌唱、ハーモニーを知覚することで起こる情動の変化には何か相似たものがあるように感じます。端的にいえば、これらのパートは同じ物事について歌っているような感じがしてくるのです。

 

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ここでもう一度、テキストとしての歌詞に戻ってみます。

韓国語で「자유」と発話されるとき、日本語で私たちが「自由」という言葉を聞いて受けとるのとは、受け取る語感が異なっているだろうことが想定されます。そこで、先述した母音の音象徴の話の続きになるのですが、韓国語において、自由は大きな声で「あ~~~~」と叫びたくなるような、開放的な感じ方をするのではなく、/a/から/u/へと吹き抜けるのではないか、と考える。

"I'm so good with you"という歌詞の前半の2小節、すなわち"I'm so good..."は、母音で言うと/a/→/o/→/u/と移動していきます。これらの3つは全て、舌が後方に引かれて発音される後舌母音です。そして、大きく口腔を開いた状態から、唇を円くすぼめつつ舌の位置は徐々に上がっていく(/o/は中舌母音、/u/は高舌母音)。ここで既に、/a/から/u/へ吹き抜ける1つのかたちが見て取れます。残りの2小節、"with you~♪"。カナで示せば「うぃーずゅ~うう~うう~」といった感じで、口を横に引いて/i/で笑顔の屈託のなさを作ってからの、駆け上がるように自由を謳歌し最終的に/u/へと収束していく「ずゅ~うう~うう~♪」、なのです。

そして、"Singing that~♪"と、それに続く"Singing that cool"。そもそもこのthatとは、何を指しているのでしょう。何をクールに歌おうと言っているのか?ここまでくると、やはりこれも自由のことなのではないか、と目星をつけたくなります。そして"that cool"というそれらしき部分に、자유が相重なってくるのではないか?となるのですが、"that"の発音は記号上/ðǽt/となり、二重母音の範疇となってしまいます。しかし、二重母音の手前に位置する子音の調音方法に眼を向けることで違った視点が得られます。

 

日本人の英語スピーキング学習においても大きな難関の1つとされている[ð]は、舌先と上歯を近づけて音を生じさせます。ただ、ウィクリたちの発音を聴くかぎり、ほとんど[d]と発音しているように聴こえます。[d]も[ð]と調音方法は比較的似ています。舌先と上の歯茎を接触した後一気に放して音を生じさせるのですが、thatを発音する際、[d]に続いて母音を発音する構えをつくるため、舌はそのまま後方奥へと下がっていきます。この向きは、すなわち後舌母音である/a/へと向かっています。

coolの発音記号は/kúːl/ですから、"Singing that cool, Singing that cool..."と歌う時、形として/a/から/u/へ呼気の流れが生じているというのは、자유と発話するとき、あるいは"I'm so good with you~♪"と歌われるときと、現象としては大枠共通しているといえる。さらに、歌唱の方法やコレオグラフィーを通した身体表現を同時に検討するとき、表現として자유/自由な生を想起させる構造になっているのではないでしょうか。

 

 

瞬間 순간 に接続する方法、再記憶

 

自由の話がだいぶ長くなりました。もう1つのキーワードにも目を向けなければいけません。それは瞬間です。韓国語の歌を聴いていると本当によく耳に入ってくるチグミスンガン、今この瞬間。チグミスンガン、とわざわざ声に出して読みたくなるほど語感が良いのも魅力です。しかしあまりにもありがちで使い古され、相当に手垢のついたこの表現を、なぜウィクリたちは大事そうに抱えようとしているのでしょうか。

 

「瞬間」について考えるにあたって卑近な例を出すのですが、最近(といっても去年ですが)個人的にやめた習慣があります。それは、アイドル楽曲のfanchant=掛け声を覚えることです。掛け声を覚えていったときのコンサートは、確かに楽しいです。唱和することでいわゆる会場との一体感というやつを味わっているのでしょうし、アイドルたちもMCで掛け声が大きいことを喜んでくれるからというのもある。ただ、ずっと心の中にはうっすらと割り切れない思いがありました。掛け声をすることによって、相当部分の認知リソースを持っていかれているのではないか?要するに、一体感を楽しんでいるようで、実はコンサートの「いまここに在る」ことからは離れているのではないか?という疑念です。余計なことに気をとらわれず、舞台上の表現者や効果、音響などから得られる知覚に対して身体感覚が十分にひらかれた状態で鑑賞するべきではないのか?案外、「地蔵」といわれている人たちの楽しみ方が"解"なのではないか?と。惜しむらくは、それを確認するための舞台がここ1年以上開かれていないということなのですが…(付言、コンサートやライブの楽しみ方は十人十色であり、極端に周囲に迷惑をかけない限りはそのうちの特定のものを否定する意図はありません)。

 

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初めて掛け声を覚えた曲、おまごるバナナの『バナナアレルギー猿』

 

ただ、このようにコンサートである種の美的な体験を身体に刻みつけようとする試みは、おそらく成功しないような気がするのです。 鑑賞するぞ!という強い前のめりの意図があるからです。「真の感動」などというものがあるのだとしたら、少なくともそれは意識的に手が届く領域のものではなさそうです。同様に、その場その場で生まれては去っていく「瞬間」を意図的に掴まえようとしても、それは手をすり抜けていってしまう。ジハンの忠告に従ってスマホに楽しいできごとの全てを録画したと思っても、クリップにその「瞬間」それ自体は残らない。

ふだん私たちが考えている時間とは、直線と矢印の方向で表せるような、何か定量的で等距離的なもののような感じがします。しかしそれは共同体の中で時計を通じて人間を管理するのに適した概念であり、「瞬間」はそうした直線上にある時間のなかの一点として、ドットで便宜的に表わせるようなものではない。そのように容易に捉えられるものだとしたら、マンデーは「今この瞬間は戻ってはこない」などと、何もかも悟ったような顔で歌わないはずです。

 

 

マルセル・プルーストの研究者として知られる保苅瑞穂氏は、このフランスの文学者が『失われた時を求めて』で執拗に描き続けた、美的な真実が立ちあらわれる際のキーとしての無意識的な再記憶と「瞬間」の経験について、隠喩表現を手がかりに思索しています(※3)。

 ここでプルーストのいう再記憶ないし無意識的記憶とは、学術的な心理学用語ではありません。一般的な意味合いで言われる顕在記憶とは違ってその想起に意図的・理知的な要請を要するものではなく、感覚と想像力が無意識かつ同時に働くことによって不意に起こされるものをさしています。ある過去の体験と、感覚の上で共通したなんらかの要素を知覚したときに、その感覚が現在の意識のなかにぱっと回帰して甦る、あるいは身体感覚として再び顕在してくるような構造がある。保苅氏によればそれは『失われた時を求めて』の文章に頻出する隠喩的表現がもたらす「意味的な転移」ともアナロジーをなしている、ということなのですが、具体的な修辞の事例についてはここでは深くは立ち入りません。

注目するのは、プルーストがその再記憶の際に体験するとされるものをどのように表現しているかです。プルーストによれば、この無意識的記憶の想起に際しては過去そのものが甦るのではなく、またそれが現在の時点において立ち上がっているわけでもなく、その2つの時間に共通して生起した感覚を通じて触れた「純粋状態における時間」=「永遠」がそれである、というのです。要するに、ウィクリたちが捕まえようとしている「瞬間」の正体であり、冒頭で挙げたONFが歌う「人生の叫び」でもある。普段私たちを支配している、定量的・等距離的に区切られた時間の概念を超越した、超時間的で根本的な生。生きられた時間としての生、「実存そのものの転調」(※4)としての瞬間に触れ、それらにいわば接続するための方法が再記憶ということになるでしょう。

 

 

毎日学校と家の往復、退屈でしょ?

 

最後にいま一度、"After School"に立ち戻りましょう。なぜ、今この「瞬間」それ自体に意図的に触れようとしても触れられないと分かっていながら、それを追いかけるのか。曲冒頭の1小節目、スケートボードで登場するジェヒ以外の6人が、椅子を囲んでその周りをコミカルに歩き回るシーンがあります。ワンエイトの6カウント目、円ごしに互いの顔を見合わせ、7-8カウント目で内臓に響くベース音が止んだすきに2度、胸から上を動かします。まるで、お互いにしか伝わらない合図をするように。知ってか知らずかウィクリたちは、いつの日か再記憶を発火させるであろう痕跡を、舞台の上でばら撒いているのではないでしょうか。

最後のサビを終えてのクライマックスでは、向かって左端でセルカを撮るためスマホを取り出すジユンのほうに向かって6人が「ごちゃごちゃに」集まり、「ばらばらに」ポーズを取る。スジンは「 今その表情、角度が素敵だよ」と歌う。こうしたごちゃごちゃ・ばらばらという統一感の欠如や、Weeeklyの楽曲においてはしばしば顔を見せる各アクターに委ねられる裁量の広さは、偶然性に身を任せ、唯一一回性を帯びた体験に至るためのすき間を拡げています。毎日学校と家の往復(매일 학교 집 학교 집、デビュー曲"Tag Me"の最初に歌われる歌詞)、直線的で、未来のことばかりを考えさせられている時間からは、高跳びしたって届かない場所へ。

 

 

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おわりに

 

 

瞬間に接続するための記憶は、クリップやセルカを録って残すこと自体によってではなく、その日その場でお互いに「目を合わせて 長い髪をなびかせて(ジユン)」感覚を共鳴させた、ただ一度きりの心のありようが痕跡となることで、そこ=内的な感覚のうちに保存される。一度きりの固有の経験でありながら、ウィクリたちが舞台上でばら撒いた痕跡は普遍的な生へと繋がっています。そしていつの日か、過去に生きられたある時間といまここを繋ぐアナロジカルな経験に遭遇し、感覚を通じて想像の中に再び永遠の瞬間を生起させるときを待ちながら、痕跡はそこでずっと煌めいているでしょう。

 

 

文献

(※1)浜野祥子、「「スクスク」と「クスクス」はどうして意味が違うの?」、『オノマトペの謎 ピカチュウからモフモフまで』、窪園晴夫編、岩波書店、2017年、pp. 9-28. 

(※2) 川原繁人、『「あ」は「い」より大きい!?音象徴で学ぶ音声学入門』、ひつじ書房、2017年、pp.68-70.

(※3) 保苅瑞穂、『プルースト 印象と隠喩』、ちくま学芸文庫、1997年、pp.234-246. 

(※4)モーリス・メルロ=ポンティ、『知覚の現象学1』竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1967年、pp.251.