the TOWER of IVORY

あなたたちの耳が長いのは、神の代わりに世界の声を聞くため

踊り手はどこへ去るのか?OH MY GIRLユア"Bon Voyage"パフォーマンスを通して

 

OH MY GIRLメンバーから初、ユアのソロデビュー

 

 前回7月のエントリでは、OH MY GIRL(以下おまごる)の"NONSTOP"日本語バージョンの音韻とリズムに関する違和感について、音声学の観点から検討しました。

 

towerofivory.hatenablog.com

 

 

それから2ヶ月の間、おまごる自体のカムバックはなかったものの、コラボレーションや日本語オリジナル曲のちょこちょこしたリリースがかなりのペースで続いており「あれ、また新しい曲出た?」とついつい聴くのを後回しにしちゃったりしていたのですが…

 

 ユニークだったのは8月7日リリース、韓国の子ども向けアニメ「ポンポン ポロロ」とタイアップした2曲("SUPA DUPA"と"Bara Bam")です。おまごるのキャラクターならではのキャスティングであると同時に、歌詞が意外と泣けたりミミが声質の生かし方において新境地を見せている部分もあり、音源チャートでのヒットがいまだに続いている(怖い…)"NONSTOP"や"Dolphin"に劣らない魅力爆発のリリースとなりました。

 

 


[MV] OH MY GIRL(오마이걸) _ SUPADUPA (천천히 해봐)

 

 

 

 

 そして9月7日には、もうすぐ誕生日を迎えるゆあたまがメンバーの中から初のソロデビューを果たしました。エントリの最後に少しだけ言及しますが、ティーザー画像の発表時には英語圏と思われるファンダムを中心に、ゆあたまの身につけている衣装や装飾品といった外的表象についてCultual Appropriation(文化の盗用、コロニアリズムに起源を持つ非対称的な関係における文化の商業的流用・借用)に当たるのではないかとして、ティーザー画像・映像の取り下げが求められる事態も起こりました。ひとまず、その話は措いて。

 

 

 

 以下本稿では、デビュータイトル曲"Bon Voyage"(韓国語タイトルは숲의아이=森の子ども)発表に関連して翌8日にリリースされた下記のパフォーマンス動画とソ・ジウム作詞の歌詞を参照していきます。歌詞の世界観に沿って繰り広げられるゆあたまとダンサーのパフォーマンスに表れる象徴性について、検討を試みます。また、歌詞の和訳は筆者によります。

 


유아(YooA) - 숲의 아이 (Bon voyage) (Performance Video)

 

 

 

イニシエーションの場としての森

 

まず触れておきたいのが、作詞を担当しているソ・ジウム氏についてです。おまごるにはこれまで”Closer”に始まりぴみじょこと"秘密庭園"や最新のカムバックタイトル曲の"NONSTOP"に至るまで、既に1ダースを超えようとする彼女達の代表曲への歌詞提供を行っています。

 

美しい君へ — 【ize訳】作詞家 ソ ジウム

 

2016年のインタビューでは、彼女が本領を発揮するのはSF・推理小説・そしてファンタジーといった、自分が経験できないようなことを詞にする時だと語っています。であれば、今回のように非現実的・非現代的な要素を多分に含むコンセプトの仕事では、彼女の言うように水を得た魚になっていたわけですね…

 

 

 

 では、適宜パフォーマンス動画を見ながらお付き合いください。まず、"Bon Voyageの"舞台が繰り広げられる「場」の確認から。この曲で終始舞台とされているのは、曲のタイトルにあるように「森」です。

 

 

보름달 아래 모여드는 반딧불이

오래전 설레었던 어느 Christmas처럼

눈부셔 참 눈부셔

満月の下に集る蛍が

昔ワクワクした、あのクリスマスのように

眩しい すごく眩しい

 

 

中盤の歌詞で「あのクリスマスのように…」、と唐突に飛び出すキリスト教文化習慣の示唆やパフォーマンス動画でのダンサーたちのティンカーベルを想起させる衣装から、「西ヨーロッパ文化圏をモデルとしたファンタジー世界における森」もイメージできそうですが、より抽象的な場の想定がふさわしいように思えます。

 

うっそうとした森という場は、神話的な文脈では異なったイメージをもたらします。そこは、非日常の「何かが起こる場所」であり、神秘的な景観を湛えていたり、あるいは凶暴で得体の知れない異形がひそんでいたり…いずれにせよ、未知のことがらを否応なく経験・通過することになる、イニシエーションの場のひとつです。世界中の神話において、このような場では冒険のカギとなる出来事が起こる、あるいはそれまでの自分から大きく生まれ変わる出来事を体験する、というのは英雄譚を中心とした個人神話において普遍的なパターンです(ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』(上)[新訳版]、ハヤカワノンフィクション文庫、2015[1949])。

 

そんなところに飛び込んできて、精霊たちが作り出した森の入口を潜り抜けたのがゆあたまです。いったい、どんな物語が始まるのでしょうか?

 

 

 

継時的に変化していくリズム

 

ではここからは、演者であるゆあたまとそれと連動しながら主に舞台装置としてはたらくダンサーの織り成す表現を、私なりに読み取っていきます。

 

어느 날 난

조금 낯선 곳에 눈을 떴지

온몸엔 부드러운 털이 자라나고

머리엔 반짝이는 뿔이 돋아나는

그런 곳 이상한 곳

 

ある日、私は

ちょっと知らない場所で目が覚めた

身体じゅう、やわらかい毛が生えてて

頭には煌く角が生えてて

そんな、おかしな場所

 

 

冒頭で森の入口となるアーチを作っていたダンサー達が左右にはけて半円状の舞台を作ると、ゆあたまは暫く立ち上がることなく両の手の動きを中心に、この「おかしな場所」の状況説明を続けていきます。

 

普遍的な神話のなかで主人公の運命の変革をもたらす案内人として現われる使者は、しばしば動物や老人の姿をとって登場します(キャンベル、同上)。冒頭の歌詞では、人間としては異形と思える姿に「変異」したゆあたまが示されています。 

この物語の主人公は間違いなくゆあたまでしょう。しかし、演者と鑑賞者という関係性において異形のゆあたまは、さらにもうひとつの役割を担います。鑑賞者が、"Bon Voyage"の世界に顕現するさまざまな抽象的イメージに触れながら冒険をしていくにあたっての案内人となる存在。儀礼の場としての森は主人公だけではなく、鑑賞者にもひらかれています。

 

 

길을 잃으면

키가 큰 나무에게 물어야지

그들은 언제나

멋진 답을 알고 있어

 

道にまよったら

背の高い木に訊かないと

いつだって

素敵な答えを知っているから

 

 

演者に意識を戻します。Tropical Houseのビートが消え、しんと静謐な空間のなか精霊の手を借りて立ち上がると、樹木に触れたり精霊と戯れたりといった、ゆあたまとダンサーとの連動したコレオが続きます。ゆあたまが自然との一体化を、律動的に楽しんでいるような。

 

そして大いなる自然は、世界の本質を耳うちしてくれます。悩むことはないのだと。この背の高い木や主人公に耳うちする精霊は、境界を越えていくにあたって行く先を示してくれるトリックスターのようなイメージを喚起します。

 

 

지금 난

태어나서 가장 자유로운 춤을 춰

난 춤을 춰

나는 찾아가려 해

신비로운 꿈

 

いま、私は

生まれてからいちばん自由に舞い踊る

私は、踊る

私は求めて行く

神秘的な夢を

 

 基本的には中心円ないし精霊たちの描く円・半円の空間内で完結していたリズム運動が明らかに変わるのは2番のブリッジ~ドロップ部分です。ゆあたまは両腕に群がった精霊たちを最初は1体ずつ、続いてもう一方の手ではひと振りで、しなやかに還していきます。精霊の助けで境界を越えた彼女は、ただ1人となった舞台でまさしく「生まれてからいちばん自由に舞い踊る」。空間的な伸縮、力性的なアクセントがこれまで以上に強くつけられ、ダイナミックに生命が息吹くリズムを迸らせているのが鑑賞者にも伝わっていきます。

 

 

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アウトロでは、再び精霊たちが作ったアーチをくぐり抜けて主人公は去っていきます。このアーチは、ここまで物語の舞台となっていた森という場からの出口と考えていいでしょう。ただ、アーチに手をかけて後ろを(鑑賞者の側を)振り返ったゆあたまの表情や瞳、窮屈そうな肩、後ずさる動作の連続は、一抹の不安を感じさせます。

 

 

 

プリミティブな文化=イノセンスの象徴?

 

ゆあたまが全体の舞台を通して表現してきたものの核は何か、改めて振り返ると、イノセンス、純真、ということではないでしょうか。この曲のそもそものタイトルは「森の子ども」とあり、現実の人間世界から隔絶された空間を体現するダンサーたちと主人公とのコミュニケーションのあり方がそれを象徴しています。また、そうした演者のあり方を印象づける装置として、重要なドロップ部分にはトライバルなビートとチャントが配されています。

 

さらに観点を差し挟むとすれば、ダンサーが全て女性であるというジェンダーバランスにも触れておきたいところです。KPOPにおいてバックダンサーを従えて演じられる舞台の表現内容については、男女の人数比率やメインアクターとの接続の性質といった角度からも検討する余地があるはずです。(もちろん、男女と限定するのを前提とした議論は、QueendomでのAOA"Egoistic"のようなパフォーマンスを前にした際に大きく揺らぐでしょう)

 


[ENG sub] [3회] ♬ 너나 해(Egotistic) - AOA @2차 경연ㅣ커버곡 대결 컴백전쟁 : 퀸덤 3화

 

 

たとえば、もし"Bon Voyage"のパフォーマンスでダンサーに1人ないし2人、(ダンサーとしての振る舞いや装いなどが男性的であると判断しうる)男性が含まれているとしたら、プロデューサーは全く異なる表現を考え直さなければならないでしょう。この森の先を抜けたら、踊り手はどこへ去るのか。非日常ではないところ、日常へ。それはただ純真なままではいられない現実に戻ることであり、暴力性のひそんだ社会へと戻ることであり、いまだに家父長制的価値観の影響が強く残った男性中心の社会へと戻ることです。こうした現実との対比として、"Bon Voyage"の森では男性的な表現、あるいは異性愛規範性が排除されているとも考えられます。

 

 また、"Bon Voyage"において視覚的にも音楽的にも折衷的に組み合わせて作られた「プリミティブな」意匠は、イノセンスという象徴を示すための根本的な装置として機能しています。こうした民族的なモチーフの一部は、「プリミティブな」文化のなかで暮らしてきた人びとが大航海時代から帝国主義の時代にかけてコロニアリズムの下に征服・収奪され、抑圧されてきた歴史的事実と分かちがたい文脈を持ちます(今回のコンセプトイメージについての議論は、具体的にどのような文化からのイメージ流用が行われているのかを探しまわるやその事象自体の是非を問うことではなく、民族的な意匠が記号として持つ象徴的意味作用を、制作側がどの程度恣意的に取り込んでいるのか、が論点になるのではないかと思います)(参照:S.K.ランガー『シンボルの哲学 理性、祭礼、芸術のシンボル試論』、岩波文庫、2020[1942])。

英語圏のファンダムによる抗議はTwitterのリプライを流し読むかぎり拙速に過ぎると思われる面も多分にありましたが、拡大しつづけるメディアであるKPOPのオタクとして、少なくともその表現のありようを捨て置かずに注視していくことも必要なのではないでしょうか。

 

 

おわりに

 

最後になりますが、この舞台で繰り広げられた一連のエピックを外部から眺める鑑賞者として、何を受け取るのか。おとぎ話として捉えるのも、もちろん1つです。個人主義の時代を生きる私たちにとって、森に導かれた子どもが自然と一体となることで自己と世界の本質を同一にみる=いっさいのエゴイズムから解き放たれる、という自己救済のストーリーを読み取ることは、すごく魅力的です。

ただ、それで掬い上げられない生もあるはずです。本稿でふれたようにこの物語はいまや、ゆあたまを通して鑑賞者にひらかれたのです。ファンタジーをファンタジーとして閉じ込めたままにせず、この世界の多様にひらかれた生をまなざすときのひとつの道しるべとして、森の子どものお話を大事に受け取りたいと思います。