그 안녕 ク アンニョン
この文章は、小澤みゆきさん @miyayuki777による文芸アドベントカレンダーの10日目の記事です。2020年読んだ本のなかから、チェ・ウニョン作家の『わたしに無害なひと』を紹介いたします。
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「人と人とのことだもの」というようやくたどりついた達観を、でもやっぱり違うんじゃないか、と思うような夜がある。
自分が傷つくかもしれないというおそれから遠ざかり、目をきつくつむり鈍感でいようとする、ずるさのような気がして。かといって、だれかと親しく日々のできごとを分かち合いたいと思っても、自分のことばやまなざしが、いつか必ずその人を鋭く傷つけるということを、いやというほど知ってもいる。どうしたら善くいられるのか、またしても分からなくなった。
そんなある12月の夜、韓国のヴォーカルグループLOVELYZの曲、”어제처럼 굿나잇(Goodnight Like Yesterday)”と1日を終える。
lovelyz - 어제처럼 굿나잇(昨日のようにグッナイ) 日本語字幕
ある楽曲を音楽的に経験するとき、その楽曲を構成する要素の中で歌詞はどこまでも付随的なものだという考えをきくと、概ねそうなのだろうと思う。知らない言語でつづられる歌を聴くとき、私はどこが単語の切れ目なのかも分からない音の振動を聴いていて、それでいて心が動かされたりする。いや耳で聴くことすら、体性感覚をつうじて身体全体で音を感じることの一部でしかないともいう(山田陽一『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』春秋社、2017年 18-23ページ)。
だとしても、ある性質を持った歌詞がそれに沿った情動を伴うということも、経験的に否定はできない。
以下に示すのは、1分13秒からメインヴォーカルのケイが歌う4バースの歌詞。
하룻밤만 안녕 내일은 다 괜찮을 거야
一夜だけアンニョン 明日には大丈夫になってる
다신 안 볼 사람들 하는 그 안녕이 아닌 걸지도 몰라
2度と会わない人たちがする あのさよならとは違うかもしれないし
歌詞全体のストーリーを辿っていくと、もう終わりが見えている恋愛関係をなんとかしようとする主人公の絶望的なあがきが描かれている。どこにでもある筋書きだけれど、ケイが歌った「2度と会わない人たちがするあのさよなら」という表現は、ちっとも陳腐ではない。
韓国語の안녕 アンニョンは、Hi でもありByeでもある。後半のク アンニョン、すなわち「あのさよなら」は、前半にあるアンニョンとは異なった意味合いのフレーズになる。恋人の「ごめん」という言葉を聞かなかったことにしたり、上手に出来ていないのが分かっていても作り笑いをしたりしながら、ケイは今夜ここでしたアンニョンは「あのさよなら」とは違うんだ、と言い張る。そして、聴いている側もまた「あのさよなら」のことを知っているのだが、その経験されたかたちや認識の度合いは千差万別。普遍的なモチーフを、たった2語で無限に広げることに成功している。
作詞家キム・イナがプレゼントした、LOVELYZのこのプレデビュー曲のリリックのなかでも際立って優れた部分だ。
ところで、ケイの本名はキム・ジヨンという。1980年代初頭、韓国人女性に最も多かったという、あの名前だ(『82년생 김지영(82年生まれ、キム・ジヨン)』)。もっとも、ここで歌っているキム・ジヨン(김지연)氏は1995年生まれだし、ハングル表記ではイウンㅇ ニウンㄴの違いがあるから、カナ表記名からの連想で一緒くたにしていいものではないのかもしれないが。
話のおぼろげな繋ぎ目としてここで韓国文学を持ちだしてもいいのであれば、ケイが歌った「あのさよなら」を執拗に、克明に7編の物語に描き込んだ作品としてチェ・ウニョン作家の『わたしに無害なひと』を連想する。
『わたしに無害なひと』のそれぞれの短編にも、親密な他者との関係においてもう後戻りのできない地点を越えてしまった人たちが出てくる。「あの夏」の語り手イギョンは、恋人スイと過ごした時間へ2度と戻れないことを願う。その世界を壊したのは自分だったから。「砂の家」では、90年代のインターネット通信で知り合った3人組(ナビ、コンム、モレ)が、お互いにもう会えなくなることを感じとりつつ別の道を進んでいく。
2人の主人公、イギョンとナビのどちらも、他者との境界におののき、その視線にがんじがらめになっている。だからこそ繊細な感性を持つ人間に対しては良くも悪くも感度が高いし、他者に依存することでようやく保ってきた自分の小さな世界が乱されれば、相手のせいにしてその苦しみからまぬがれようとするしかない。
軋轢が生まれていくプロセスには、主人公のあずかり知らないさまざまな要因が働いている。個々の性向や過去の経験といった個人的要因、勾配を生み出すもっと根本的な原因としての家庭環境の違い・経済面/教育面での格差。あるいは、ヘテロセクシズムに基づく偏見の目。傷つくことを恐れて虚勢を張り、無知にもあなたを傷つけていたのは自分だったと解っていく過程が描かれていく。どちらの話も、終幕に近づいていくにつれてひりひりした気持ちでどうにかなりそうになってしまう。
だから、著者がこれらの登場人物の心の動きをじっと見守り、歩度をあわせながら筆を進めてくれることに救われる。そのまなざしは7つの物語を通して、傷つけあいながら愛するしかないすべての人びとへと注がれている。あれこれと取り繕ったすえ恋人を失い、しばらくの間はそれを引きずって、ほどなくして歩き始めるに違いない"Goodnight Like Yesterday"の歌い手にも。10数年も昔に自らの無神経さが引き起こした忘れてしまいたいできごとを、ぽつぽつと語り始められるようになったイギョンやナビにも。もちろん、この本を読んでいる人たちにも。
しかし、『わたしに無害なひと』の物語がもつ射程は、個人的な関係における困難さの領域にとどまらない。6月23日に行われた著者と温又柔さんとのトークイベントで、訳者の古川綾子さんが本書の表題にある"無害な 무해한"という語彙について、他人に迷惑をかけない...というようなときにも使われるがどうか、という問いかけをされていた。思った以上に簡単ではない、お互いを理解していくこと。迷惑というニュアンスを導入すれば、表題は『わたしに迷惑をかけないひと』と捉え直せる。
さらに、2020年現在のこの国において、一般にどのようなことが迷惑とされ目の敵にされているだろう、と考えてみる。そうすると真っ先に思い浮かぶのは、現実に目の前に横たわっている現代社会の構造的問題を根本的に変えるために行動し、声を上げる女性に対して浴びせられる、もはやマジョリティの人間とは論理という共通理解が成り立たないのではないかと思うような誹謗中傷だった。
前述したトークイベントの冒頭で著者は、「家父長制による抑圧を生きてきた人間として、抑圧された女性の人生を描かなければならない」と語っていた。『わたしに無害なひと』においても、さらにいえばデビュー作の『ショウコの微笑』の各短編においても、物語はこのアクチュアルな観点から紡ぎ出されている。
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